「らしくないね」…そう言われると、あなたはどう感じますか。「子どもらしさ」や「親らしさ」という言葉。そうした「らしさ」を求めること自体に、僕は少し、疑問を持っています。

「らしさ」ってどういう事?

家族や親しい友人、職場の同僚から「今日は、らしくないんじゃない?」と言われたことがある人は、僕だけではないと思います。そんな時僕は、「らしさって何?」と思ってしまう。それどころか、「何か間違ってる?」と不安に思ってしまうことがあります。

一般に「らしくない」という言葉は、既成の価値観や基準、平常時にとる行動やパフォーマンスとは異なる状態のことを意味していて、どちらかというと「あまり良くない状態」を示す時に使われるという印象があるからかもしれません。

そして、この「らしさ」を求められる状況というのが、「子育て」には多い。「母親らしさ」や「父親らしさ」を求める声にはじまり、「子どもらしさ」を求める声まである。社会が、経験がつくってきた「らしさ」から少しでも離れた価値観・行動が見られると、「らしくない」と言われてしまう。そんな状況がそこかしこにある気がしてならないのです。

母親の姿に「父親らしさ」を探す

僕は「父親」という存在を全く知りません。幼少期に父親が他界したため、一緒に過ごした記憶が無いのです。

あるのは、女手一つで育ててくれた「母親」との思い出だけ。それも、際立った「母親らしさ」を感じるような記憶ではなく、母親としての役割と父親としての役割を必死に兼任しようと奮闘する姿だけが残っています。

僕自身についての記憶も「子どもらしさ」よりは、少し「大人びた」記憶が思い起こされます。

現在とは違い、学童保育や延長保育などが無かった時代。ましてや、僕の地元はドがつくほどの田舎。「ひとり親」というだけで学校ではマイノリティ扱い。両親が揃っていることが当たり前とされる中、異質な境遇の子どもはいじめに遭いやすく、大人たちからは哀れみの目で見られるような時代でした。

そういった環境の中で、「父親のいない境遇」について考えを巡らせるのは自然なことだったのかもしれません。僕は、「まだ子どものくせに」といわれるような頃から「いつかは父親になる自分」を意識し、自分なりの「父親らしさ」を模索するようになりました。

「父親として何が伝えられるのか」

そんなことばかり考えている、ちょっと変わった子ども。彼女もできた事が無い内から、その先の、さらに先の事を考えるなんて。今になって振り返ると、ちょっと笑ってしまいます。

でも、あの時の僕は必死でした。母親の姿の中に「父親らしさ」を探しながら、「自分なりの父親像」をつくろうとしていた。それは、自分に父親がいない不安からというよりは、ただ「父親という存在を知りたい」という好奇心からはじまったもののように感じています。

理想の父親像は、いずこに?

そんな僕が「父親らしさ」の代表としてまず目を付けたのが、アニメ「サザエさん」の磯野波平でした。一家の大黒柱として、食卓の中心に座り、朝は新聞を読みながら、妻が食事を目の前に運んでくる。子どもに対しても基本的には上から目線で「ばかもーん!」と怒る事の方が多い。そんな彼を、なぜか「理想の父親」の参考にしてみたのです。

しかし、母ひとり子ひとりの我が家に家長然とした空気などあるはずもなく、結局、登校前に新聞を読む真似をしただけで終わってしまいました。

「父親って何なんだ…」

世間一般に語られる父親像も、自分自身が理想とする父親像も余計に分からなくなってしまった中、再びテレビの奥に「これだ!」と思える父親像を見つけました。当時大人気だった「所ジョージ」さん。子どもが大人になったような大人といえば良いのでしょうか。とにかく、理想の父親像を探す僕は、彼に釘付けになってしまったのです。

遊びと仕事の境目がよくわからない。子どもと横並びもしくは、一歩引いてアドバイスをする。彼の、上から目線ではない「人対人」という関係づくりに、心底惚れこみました。

「こんな父親がいたらなぁ」

愛妻家の所さん。今でも僕は、彼のファンです。彼のように、遊びや仕事、子育てや家庭を楽しめる父親でありたい。子どもに対してフラットな目線を持った「らしくない父親」になりたいと、思うようになりました。

「らしくない父親」でいいじゃない

そもそも「子どもらしさ」や「母親らしさ」「父親らしさ」とは何なのでしょう。「らしさ」という価値観は、どこから来るのでしょう。

僕は、この価値観は時代や個人の経験によってつくられてきたもの…中でも「親たち個人の経験」によるところが大きいと考えています。

子どもの成長は、時代がいくら変わろうとも、ある程度の不変性を持つものとして考えられていると思います。好奇心や興味を持ち、挑戦し(失敗し)、できることが徐々に増えていく。子ども達は、自ら学び、チャレンジし、体得するプロセスを本能的に繰り返す中で、歩けるようになり、言葉を話すことができるようになっていく。実際に、生まれてから大きくなっていく過程の中で、ほとんどの子どもが「他の子たちと同じように」成長していくことを実感している親も多いだろうと思います。

しかし、現実にはすべての子どもたちが「他の子たちと違う成長」を遂げている。障がいがあるお子さんに限った話ではなく、すべての子どもたちが「同じであるはずがない」のです。

性別も誕生日も違う。住む場所も、暮らしの水準も違う。
何より、親も違う。

そう考えると、時代や社会がつくってきた「らしさ」を子どもたちに当てはめることに何の意味があるのでしょう。

僕は、「子どもらしさ」という言葉の前に、自分や自分が関わる子どもたちの能力や行動に境界を設けるようなことはしたくない。「ここまで」と天井を決めてしまうようなことだけはしたくない。「子どもらしさ」よりも「その子らしさ」を尊重できる父親でありたいと、親になった今、思っています。

誰しも親になった当初は、自分が思う「母親らしさ」や「父親らしさ」を前に、子どもにどう接すれば良いか戸惑い、試行錯誤を繰り返すと思います。

しかし、子どもも人間、親も人間。子どもたち一人ひとりに「その子らしさ」があるように、親である自分たちにも「自分なりの親らしさ」がある中で、社会が求める「らしさ」を無理に追求する必要は無いと僕は思うのです。

子どもが1才の時には、親も親になって1才です。

子どもたちの成長を型にはめ、均質的で模範的な子どもに仕立て上げるようなトリガー(引き金)を、親である自分たちが作り出すことがないように。ステレオタイプな「親らしさ」や「子どもらしさ」に縛られることのない親たちがもっと増えても良いのではと思っています。

僕自身は、躾や教育といった上下の関係を超えて、「個」を尊重できる親子関係を目指していきたいな。「親だから」という言葉に縛られない、「らしくない親」を目指しながら、これからも日々の子育てを楽しみたいと思います。

 

というわけで・・・アディオース♪

過去の記事

おせっかい隊:松村 信宏(まつむら のぶひろ)

宮崎県出身。母親が42歳という高齢出産のため、1500gの未熟児で生まれる。待望の男児とのこともあり幸せな家庭生活と思いきや、2才の時に父親が他界。一転、ひとり親家庭へ。

家庭境遇からのいじめや瀕死の大怪我、母親の病気に嫁姑問題をくぐり抜け、母親とは長年の戦友といった仲。

現在では、オフィスメーカーとして子ども達の学ぶ環境をデザインする仕事の傍ら、プライベートでは子どもの「自己受容感」を高めるクリエイティブ工作ワークショップを開催。

家庭では父親を知らない父として「寄り添い見守る子育て」をモットーに2才女児の育児に奮闘中。