「サプライズを持った子どもが誕生すると…」~障がいのある子どもを授かると仕事はどうなる?〜 の続編。第6回目は、「恩返しから恩送りへ」の一歩を踏み出した当時のエピソ ードを綴ります。
生まれて2年9ヶ月目にしてはじめて「口からご飯を食べた」次女の音葉。
カブキメークアップ症候群という障がいの症状の一つ「軟口蓋裂(なんこうがいれつ)」の手術が成功し、ようやく一緒に食事ができるようになったあの日以来、順調にご飯を食べ病気の数も激減。入院することも無くなる中、地域の保育園や療育のための通所施設に通うこともできるようになった。(療育:障がいのある子どもの発達を促し、自立して生活できるように援助すること)
私は…というと、長女の天音と次女の音葉を預けて、地域のデイケア施設のスタッフ向けに運動指導を行うパートを始めるようになった。短時間でも、自分で稼ぐことができる!その事実がとても嬉しく、社会とつながった感覚に魂が生き返ったようだった。
そうして少しずつ人間らしい生活を取り戻せるようになる中、お世話になったご近所や周りの方々にお返しをしなくては…という思いが増していった。
口から食事が摂れなかった音葉に、昼夜を問わず3時間おきに鼻から細い管を胃まで入れて点滴の様にミルクを流し入れる作業(鼻腔注入)を行っていたあの頃。「これ以上ママを困らせないでね」と3歳にも満たない長女の天音に言って聞かせるしかなかったあの頃。
あの手この手で子どもたちのために、我が家のために動いてくださったご近所の皆さんに、とにかく恩返しがしたかった。
しかし、このタイミングで私たち家族は引っ越しをすることになる。
行き先は、義理の父が残してくれた土地がある福岡。
「これから音葉が成長していく中で、色んなケアが必要になるだろう。その時に必要な選択肢が多い、大きい都市の方が生きやすいと思う。それに、君の働ける場所もここより多くなると思うよ」そう言って引っ越しの提案をしてくれた夫の判断は、今思えば的確なものに違いなかった。
それでも当時の私は気が乗らず、捨てるもの、持っていくものを冷静に分けることすらできない程にぐずぐずだった。何もかも断ち切って、全部捨てないと引っ越せない…そんな感じだった。実際に引っ越し当日、あまりに片付いていないわが家を見て驚いた引っ越し業者さんが「トラックもう一台お願いします!全部捨てるとのことなので!」と応援を要請していたほどである。
してもらってばっかり。
このままこの地を離れるのが辛い。
まだ、何も恩返しができていない。
だが、無情にもその日はやってきた。
ご近所からご縁をいただいて生活してきた日々が、後ろ髪を引いていた。
涙・涙の引っ越しだった。
福岡に引っ越してからは仕事もなく、再び子ども達と過ごす時間が生活の中心になった。
しかし、夫が引っ越し前から何度も市役所に通って子どもたちの転園先を探してくれていたおかげで、子どもたちの保育園は奇跡的に決定。私や子どもたちが少しでも早く新しい土地での生活に慣れるようにという夫なりの優しさだった。その裏で、日中一人で過ごす日が増えた私は、以前の土地に対するホームシックのような感覚を味わっていた。まさに消化不良状態。心にぽっかり穴があいていた。
そんなある日、転機は訪れる。
まだ住居周りの情報にも暗く、週末に子どもと遊ぶ場所が分からずに通っていた公共施設で、地元を中心に子育て関係のボランティア企画などを行っている方と出会った。その方の持つ優しい雰囲気に、私は思わず心の内を伝えていた。
「前の住んでいた所でお世話になりっぱなしだったのに、お礼もできずに引っ越して。恩返しをしたかったのに…」
本来の元気な私の力を発揮して恩返しがしたい…
そう話す私に、その方は「そうかなぁ。その人達はあなたに恩返しを望んでいないと思う」とはっきりと仰ったのだ。
かなりの衝撃だった。
そして、こうも続けた。
「その人達はお返しなど期待せずに、少しでも生活や気持ちが楽になればという想いだけで動かれたと思うのね」
「はい、それは分かります。でも、私はあの時お世話になった人に感謝の気持ちをお礼の形で表したいのです」と私。
「その気持ちはこう表わしたらどうかしら。していただいたことを次世代のママ達にしてあげるのはどう?」
そんなこと考えてもみなかった。
考え方の扉がひとつ増えたような感覚だった。
「そういうのね、『恩送り』って言うのよ」
またしても私は、人の縁によって救われた。
心がスッと軽くなり、みるみる視野が開けていった。
それから行動を起こすまでには時間がかからなかった。
市政だよりで「女性の様々なライフイベントにおけるピアサポート」にスポットを当てた講座を見つけたのだ。
今までは見過ごしていたものにも目が行く。すぐに申し込み、15回の講座を楽しんで受講する中で、前に進む力が増していくのが自分でもよく分かった。(ピアサポート:同じような悩みや問題を抱える立場にある人によるサポート)
その後、女性のピアサポートについて学んだ仲間と共に、「すこやかライフサポーター」を立ち上げた。地域の女性の様々なライフイベント時に、お互いに助け合うピアサポート団体だ。当初は更年期で辛い時に支え合えるよう、骨密度測定のお手伝いや栄養素について学ぶ講座の企画運営などを行っていたが、しばらくして、産後・育児期の女性をサポートする「ママリボーン(ママが生まれ変わるイメージ)事業」に重点を置くようになった。
それというのも、初めての育児に悩む女性は多い。子どもの障がいの有無に関係なく、だ。
たとえば、微妙な天気や気温の日に、赤ちゃんに着せる肌着のことで「半袖?それとも長袖?どっち?」などと、新米ママは真剣に悩む。ほとんどのことは自分の心に答えがあるわけだが、その答えに行き着くためにも人に話して、確証や自信を得ることが時に必要なのだ。
そんな話を「うんうん」と聞くことができる場所。
「それでいいと思うよ」と誰かに言われることで安心できる場所。
「毎日よく頑張っているね」と言い合える場所をつくりたい。
その思いで、始めた事業だった。
ママリボーン事業では「悩みを聞きます」と言うスタンスを大切にしていた。「楽しいことをしましょう」では、本当に助けたい人達に届かないと思ったからだ。かつての自分がそうであったように、誰に悩みを話したらよいかわからず育児に戸惑いを感じている人達こそ来やすい場にしたい。元気な人は自分で前に進める。私を通して実証済みだった。
手始めに、助産師資格のある看護大学の教員の方に力をお借りして、「おっぱいのセルフケアを教えます。その他の小さな悩みも先輩ママが聞きます」と掲げた場をつくった。毎回、数名の方が来られて話したり、おっぱいケアを行ったり、赤ちゃんを代わりに抱っこしたりと過ごした。回を重ねると、初期に来られていたママが新規ママの悩みを聞いている姿を目にするようになった。
その姿を見て、元気になってきたママ達に「産前よりも美しくしなやかな心と身体になりませんか」と運動の講座を始めた。私が得意とする分野だ。子どもの託児は、独自の預かりあいっこシステムで、スタッフと大学生ボランティア、そして受講者同士が交代しながら行った。講師の子どもも受講者の子どもも「お互い様」の気持ちで一緒に見守る。ママ同士という繋がりが、その場の安心感にもなっていたようである。
こうした運営は決して楽ではなかったが、少しずつ市内での認知度も増し、行政から講師の依頼も増えてきた。
「ママでも講師になれる。社会のために何かができる」
と講座のチラシ配りを率先して担当するママスタッフも現れた。
場に携わる人が絶えない中、団体は今時点で12年続き、講師陣も代替わり。当初はバランスボール運動の講座だけを行っていたが、3代目となるママ達により、ピラティスやアロマ、ヨガ、女性に多い乳がんヨガ(乳がん経験者の病後回復時に行うヨガ)の講座などが開催されている。
恩送りとは、していただいたご恩を次の誰かに渡すこと。
多くの人を通って、順繰りに恩恵が受け渡されていく。
もしかしたら、自分の孫やひ孫が、またこのご恩をいただくのかもしれない。
「誰が始めたものかわからないけれど、このシステムはとてもいいね」と言っているかもしれない。
なんて素敵なことだろう。「詠み人知らず」の歌のように、想いが繋がることを願う。
〜続く〜
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- 「サプライズを持った子どもが誕生すると…」~障がいのある子どもを授かると仕事はどうなる?~ 2015.11.22
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おせっかい隊:中村 洋子(なかむら ようこ)
香蘭女子短期大学 准教授(保育学科 幼児体育)。ふくおか女性いきいき塾1期生。
大学教員職であったがハンディキャップ児を授かり退職を経験。看護生活で心身共に苦しかった頃の経験を活かし、沢山の頂いた援助を「恩送り」したいと考え、2006年《産前・産後・育児期の女性支援 すこやかライフサポーター》を設立。また、2012年には《発達障がい・多胎児・ハンディキャップのある子どもの育児を行う母親を支える プリズム 》を設立。2015年4月、12年ぶりに「常勤教員職」に復帰。現在は准教授となり、未来の保育従事者の育成に当たる。当事者の心に寄り添いながら人生の伴走をする「ママのガイドランナー」としても活動中!
◼︎すこやかライフサポーター